昭和45年8月14日 朝の御理解
御理解第62節「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心もしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ」
「人より我がなおよかれ」というておるが、「神信心をしても」と仰っておる。神信心もやはり、まず、わが身がおかげを受けてということが大事なのです。ね。神信心をしても、やはり、まずわが身におかげを受けなければならんと。
私、今日は、んー、今日の御理解をどう、まあ頂くかということを神様お願いさして頂いておりましたら、金光教という「金」という字「光」という字「教」、それをこう、1字1字頂くんです。あわせると金光教ということになる。その、おー、ことを頂きましてね、して、この62節をまあ頂いておるわけです。ですから私は金光教の「金」という字、これは「かね」という字ですから、まあ、「財」、いわゆるおかげに繋がるもんだとこう思いますね。おかげ。
それでから、「光」という字は、「ひかり」という字ですから、それはお徳に繋がるもんだと、ね。信心は力なりとか、光なりと、確かに徳は光であります。「金」という字は「おかげ」であるならば、「光」という字は「ひかり」と。「教」という字は「教え」と書いてありますから、「教え」のことだとこう思いますね。
ですから、もう言うたら、金光教というこの3つがね、足ろうて、おかげを受けていかなければ、私、本当のおかげではないと。まず、「わが身におかげを受けて」といったようなのは、そういう足ろうたおかげがだんだん身についていくということだと思うんです。まず、誰でもが願ってやまないのは、いわゆるおかげ。それは、ここで言われるところの「金」という字、金光教の「金」の字です。ね。
次には、いわゆる「光」、金光教の「光」の字。ひかり。次には、「教」ですね。教え。そこでまあ、大別してですね、合楽の信心はどういうことになっておるだろうかと。
昨日は十三日会に引き続いて、それから、あー、夜は、松栄会の信心共励会、研修会がございました。2回ありますのに、昨日は私が必ず出ることになってますから、あー、少し疲れてましたけれども、まあ少し時間を遅れて、松栄会にまあ出席さしてもらいました。もう話がいろいろと進んでおりまして、どういうようなお話が中心になっておったかというと、合楽の教会で、「あの人の信心は素晴らしい」と、「あの人の信心に習え」と言われるような、言わば、信心の手本とも見本ともなるような信心、そういう信心が、を頂いておる者がないということであった。
んー、そう言われてみると、確かに合楽には、そういう信心がないですね。それは、もう熱心にもう20年間、お日参りを続けておられる、朝参りを続けておられる。うー、家族勢をそろえて、一家中が信心をしておられるというのは、沢山ありますよ。けれども、「あの人の信心に習え」と。
まあこれは昨日の、皆さんの言葉を借りるとです、まあここでは言うなら、親先生が一人、少し抜き抜けておられるだけであって、他はね、まあ言うならば、あー、大した事はないんだということでございます。そこでですね、言うなら、松栄会と言えば、若い青年層の中から、まあ、あー、まあ言うなら、より抜きとでも言おうか、あのう、皆が同じ本当に真の信心を頂こうと思い、また話し合って、そういう会が期せずしてできたというのが、松栄会であります。
ですからその松栄会の中からです、一人でも二人でもそういうおかげを頂いてです、皆さんのひとつの目指しになるほどしのおかげを頂くためにはどのような信心をしたらよいかといったようなことが信心の、まあ中心、話の中心になっておりました。ね。
私、それ聞かせて頂いて、本当、なるほどこれだけ沢山な信者がおるが、例えば「あの人に習え」と、大体他所の教会にはそういう人が一人ぐらいおるもんですよね。もう「あの人の信心に右へ習えせよ」と、「あなたの信心についていけば大丈夫だ」と。と、例えば、ね、信心もできなさるが、おかげもやはり、信心してあるから違うなといったようなおかげも受けておるというような、特別のね、その頭抜けた(ずぬけた)信心者がいない。
「あの人に習うていけ」というような信心がない。私も改めてそれを聞かせて頂いて、本当にそうだなあと思うた。ね。熱心な方はあるけれども、ならそういう、おかげを引っさげて、ね、こういうおかげを受けられますよと、なら、言えれるような信者はいない、指折り数えてみて、誰が良か信心かれが、こう言うてみてもです、もうそれにね、匹敵するほどしの信心、「あの人の信心についていけ」というのが、もう本当に惜しいことにない。
ちょっとおかしい。信心はできなさるけれども、おかげが頂いていない。おかげは頂きよるばってん、信心の方はあんまり熱心じゃない。ね、といったようにですね、なるほどそれはない。いわゆる、「金」、ね、金光教の「金」を受けていない、「光」を受けていない、または、そこで結局どういうことなるかというと、合楽のね、信心で、まあ素晴らしいというなら、徹底して教えを皆さんが頂いていきよるということだけだと。金光教の「教」という字だと。ね。
これはもう、本当に、言うならば、あー、何かね、えー、お道の信心を本気で求めよう、ね、けれども修行しても分からん、話を聞いても分からん。そういうね、例えば、求めてやまない人が、もし合楽の信心、お話を聞いたらですね、もうそれこそ、長年かかって分からなかったことが、1日で、一遍の御理解を頂きゃあ、ぱっと分からして頂くような、その内容を持っておる御教えばかりなんですよね、合楽の場合は。
御理解なら御理解をこれだけ徹底して、頂く所はまずなかろうと思われるくらいに、徹底した、言うなら、噛んで含めるように頂いておるんです。
昨日も、ちょうど十三日会に山口教会の総代さん方が、5人で、みえられました。帰りがけの、その総代さんの挨拶にです、新たに信心の芽が開けましたと、まあこれは挨拶言葉でしょうけれどもです、けれども、私、昨日の十三日会のその内容を思うてみて、確かに新たな信心の芽が開けたぞとじゃなかろうかと、思われるのに、私も感じました。というようにね、教えは徹底しておる。だから、合楽の方達がこの3つの内の頂いておるというなら、教えを頂いておるということだと思うんですね。
けれどもね、その教えが身についておるとは言えないと。これは、まあ大体においてですよ、身についていきよんなさる人もある、おかげも受けよんなさる。徳はやっぱり受けていきよんなさるけれどもです、ね、大別してなんです。この3つのおかげの内の大別して、合楽では教えを受けておると、ということが一番のようである。けれどもそれは教えをどこまでも受けておるだけであってね、言うなら聞いておるだけであって、言うなら耳が肥えていきよるというだけであってです、ならその教えが身についていきよるとは思えない。その証拠におかげが受けられんじゃないか、お徳が受けられておらんじゃないかということになるんです。
私は、今日はその、この62節を頂き、その金光教というその字を1字1字頂いてですね、本当にこれはいよいよ、心しなければいけないことだろう、教えを頂くことは大事。だが、その教えが本当に血に肉になって、それが力ともなり、光ともなって、その力が光が、ね、おかげになって、そういうおかげをです、まずわが身に受けてと、私は今日は、こういうふうに頂きます。ね。
「昔から人もよかれ、われもよかれ」と、ね、「人よりわれはなよかれ」と言われておるが神信心してをしても、わが身の上におかげを受けて」とこう仰っておられます。まず、わが身の上におかげを受けてということ。ですからそのおかげならおかげを、その、まあいわゆる金光教ね、今日の御理解で言うと、「金」という字ですね、かね、おかげをね、引っさげての、そうして後、人を助けてやれと。合楽では、なるほどおかげを受けておる人があるけれどもですね、それを、なら人に伝えていけるというほどしの、その信心の熱烈さがない。
むしろ、おかげを受けておる、受けると信心の方がまあ月の内何回かお礼参拝すりゃあよかっちゅうごたる信心になっておる。ね。ですから、それが徳になろうはずもない、ね、いわゆる光になろうはずもない。かというて本当に熱心にお参りをして来るけれども、お話をよく頂くけれども、ね、んなら、おかげの方が伴うていない。徳の方はまだ頂いていはいないという感じなんです。ね。
教えは頂いておる、ね、なるほど昨日、松栄会で申しておりましたようにですね、合楽には「あの人の信心に続け」というほどしの、言うなら信心の手本。信心をしておりゃあ、ああいう力も受けられる、徳も受けられる、ああいうおかげも受けられる。ね、なるほど、教えを徹底して頂いてあるから、というようなおかげをね、受けていかなきゃいけん。
皆さん、ひとつ、胸に手を置いて考えてみてごらんなさい。なるほど、自分どん毎朝参りよるけれども、本当、まあだ、「金」の方、まあだおかげの方は、人に「こういうおかげが受けられる」というようなおかげは受けておらんなあと、まず分からない。毎日お参りして御教えを頂きよるけれども、本当に、それが「光」ともなっていないなと、ひとつ悟らしてもらわにゃいけん。
只、まあその日その日のおかげは受けておるけれども、ね、んなら信心しよればこういうおかげを受けてますよというようなおかげを受けていないというところをですね、ひとつ気付かしてもらって、本気でね、信心に取り組ませて頂かなきゃならんから、どういうような、なら取り組みをしたらよいかということに、やっぱなるわけですね。毎日参りなさい、毎日教えを頂きなさい、というところはできておるわけですね、今日、こうして朝のお参りをなさる方は、それができておる。ね。
まあその日その日の事柄は、お取次ぎを頂いてなるほどおかげを受けておる。けれども、んならそれを引っさげて、皆に信心の話でもしよう、こういうおかげを受けられますよ、というようなおかげは受けていないということなんです。
昨日の、まあ十三日会の、おー、まあテーマと申しますかね、昨日は、小倉の初代、桂松平先生のお立ち日にあたるだそうです、8月13日というのは。そこで、桂先生の信心を頂こうと、といったようなことが、まあ中心になりました。同時に、今月のここの信心の焦点であります、願いに徹せよということでございました。大体この願いに徹せよという、あの「徹」という字はね、哲学の「哲」を頂いたんですよ私は。
けれども、徹せよという時にはね、その字ではいけないと、ならあの、あれに書いておりますように、いわゆるぎょうにんべんの「徹」ですよね、「とおる」という字。ね、だからいけんというから、実は、書き直したんです。昨日もね、そのことを中心にということを頂いたら、私は次々と頂くことが徹底の「徹」という字だった。だから結局その、願いに徹せよという願いというのは、あー、「賀びを以って根とする」という願いである。
とは、そんなら、「どういうことかということを哲学せよ」というようなことだろうということに、話がね、えー、なりまして、そういうお話をだんだんさして頂いた。うん。まあ皆さんがいろいろと、信心の体験を通しての発表をなさっておられます中で、久留米の「野口っちゃん?」がこういう話をいたしておりました。ね。
あちらのお孫さんが、今、小学校の一年生と、おー、五つでしょうか、妹さん。その妹の方がですね、もう夕べはもうとても怖い夢を見たっち。もう夕べ、テレビの怖い、その、何か番組か何かを見たから、あげん(やすか?)夢ば見たじゃろうと言うてその、兄弟で話し合った。したら姉の一年生になる方がね、「せいこ?」ちゃんち言いますもん、妹が。上が「としこ?」さんと。そのとしこさんの言うことがです、せいこちゃん、あんたが晩、寝る時にね、寝る前にね、ちゃーんと神様にお願いをして寝らんからよち。としこちゃんはね、もういつも布団の上でね、あの、拝むっち、そして楽しい夢を見せて下さいというて、あのう、お願いをして寝るけんね、もういっつも楽しい夢を見るとよっち、せいこちゃんに教えよったと。
それを横でおばあちゃんが聞かせて頂いてですね、はあと思うて、まあ教えられたという話を、まあいろんなお話の中で話しておりました。私はそれを聞かせて頂きながらですね、はあ、願いを以ってと、いわゆる賀びを以って根とすると、その願いをね、願いを私は徹底するということはね、どういうことだろうかと、皆もやっぱり考えてることだと。なかなか賀びを以って根とすると、例えばあの十三日会の、おー、御案内を皆さんが読まれても、やっぱりそうです、神様が願いとされる、私共が願い願いと言うが、ね、その私共の願いがね、神様が願われるようなことを願いよる。 言うなら、私共の願いと神様の願いが、一致点が出るところまで高められたところの願いを持とうではないかというようなことが、あの案内には書いてございましたね。
ですから、そういうところに、例えば焦点を置いておるですから、自分達の願いはどうもげさくい願いだなあと、只、お願いしますお願いしますばっかり言うて、まあ我情我欲に満ちた願いばかりだなあと、賀びを以って根とするということは難しいことだなあというふうに、まあ頂いておりますけれどもです、まあ、と思いますけれどもね、私はその野口っちゃんのその話を聞かせて頂いてね、もう願いにも、願いとはこれだと私は思うたです。ね。
神様と私共と言やあ、それこそ、おー、言うならば、親と乳飲み子と、でも匹敵せんくらいの差があるはずなんです。天地の親神様と私共、言うなら小さい乳飲み子がね、母親の膝にこう、這い上がっていくといようなです、ね、いわゆる甘えていくといったような願い。これはね、神様の願いと一致すると私は思いましたね。まあだ年幅いかぬ、言うならばようやく、その、お乳を頂いとっとがね、こげなことばお願いしちゃあ、親に対して気の毒かけんで、父を、這うても親んところに行かんというなら、それこそ親の方が情けない。親の方が悲しい。ね。
だから、問題はね、私共の願いの内容がね、純粋なものでなからなければならない、ということなのです。ね。親の前にちょうど乳飲み子がね、這い上がっていくような無心な心、純粋な心。「どうぞ今晩も良い夢を楽しい夢を見せて下さい神様」と願うような心なのだ。それがね、なら親の願いと一致する。ね、信心しよらあ、こげなことお願いされんめと、特に今月はもう願いに徹せよじゃから、もう賀びを以って根とする、いうような、もう内容がなからなければ、願われないといったようなことではなくてです。
私共がね、もちっと、言うなら天真爛漫、純粋な心でです、としこさんが願って妹に教えておるような、そういうようなね、心の状態を、おー、願わしてもらい、目指さしてもろうて、願うていくということ。ね。痒うございます、痛うございます、どうぞかいて下さい、さすって下さいといったような純粋なもの。ね。
そこにね、人間の言うならば、無力さ加減といったようなもの、ね、障子一重がままならぬ人の身である私共であるという自覚ができたらね、もうとてもすがらなければおられないのである。
私は外出をする時に、必ずここへ出て、お願い、どうぞ今から外出いたしますから、どうぞ、万事よろしゅう、もう願うて行かなければおられない。こういうのが純粋、ね。
途中で交通事故にでも遭っちゃあならん、というようなですね、そういうものなんです、言うならば。それを、んなら願いに徹せよとは、賀びを以って根とすると。もうこげなこと願わんでん、神様が知っちゃるといったような、まあドライな考え方ではなくてです。そのようなことでも、ね、願うていかなければおられない心、そういう心が私は、その願いに通ずる、いわゆる神の願いと一致するものだというふうに、その野口っちゃんの話を聞きながらね、昨日、思うたです。ね。
だからその願いがです、もう十何年も前だったでしょうかね、中村さんがある商売での、まあお繰り合わせを一生懸命願いござった。そしたら神様からね、いくらおかげをやっても頂いとらんように思うておるというようなお声をね、もう大きな声で頂かれてもう、弾かれるようにびっくりしたと、はあ本当、思うてみりゃあです、今、自分が一生懸命、まあそう、願いよるけれども、本当にこの家も神様のおかげで建った、ね、お神様の部屋もこのように立派にできた。娘達もそれぞれに養子をもろうておかげ頂いた。
もう思やあ思うほど、おかげを受けておるおかげを頂き、それこそ過ぎるほどに頂いておる自分がです、言うなら我情我欲に満ちた願いをしよることに気がついてです、もうお前ばっかりは頂き過ぎ、ね、それこそ頂き過ぎるごとおかげを頂いておるじゃないかと。何を願うかと、そのことどん、まず、お礼を申し上げよというように頂かれた。ね。
だから、私共の願いがね、だからそういう願いではちっとおかしいということになるのですよ。ね、いわゆる我情我欲というものがこの中にね、まあそのことで昨日は、問題になりましてね、ならどういうところまでが我情我欲なのかと。といったような、あー、質問があってですね、まあ非常に良いお話を次々と頂きましたが、けれども、これは自分自身でなからなきゃだから分からないと、実際は。自分が願っておることは。
どうぞ今日は商売繁盛のおかげを頂きますようにと、「甲」の人が願っておるのは、これはもう我情我欲だと。けれども「乙」の人が願っておるのは、どうぞ今日も商売繁盛のおかげを頂きますようにと、甲の人が願っておるのはこれはもう我情我欲だと。けれども乙の人が願っておるのは、どうぞ今日も商売のと言うておるけれども、その芯になるところはです、神様の願いと一致するほどしの願いになっておると。だからその人と自分の内容を見なければ分からないのだと。
まあそれはまた、難しいことですからね、ちょっとまだ置いてまいりましょう。ね。ところがです、なら、願いを持って、願いに徹し、いわゆるその願いというその言葉をだんだん哲学してまいったわけでございますね。はあそういうこととは気がつかなかった、私も。と、まあ言うて、まあ皆、なるほどだと喜び合ったことです。ね。
けれども、これではね、けれども今日の御理解で言う、光にはならないということなんです。徳にはならないということです。ね、ちょうど無心に親の膝に這い上がって行く、親はそれを待っておったように、抱き上げてお乳を飲ませるというだけなのだ。ね。それは親の願いでもある、子の願いでもある、一致点が出るほどしの願いであるけれどもです、それは、なら徳にはならない。そこからね、まあ言うなら合楽的信心が、生き生きと、私は、ものを言うてこなければならない、言うなら教えを徹底して頂いておるからです。ね。
その教えが私共の血に肉にならしてもらうところから、光にもなろうじゃないか、お徳に、あー、おかげにもなろうじゃないかということになってくるんです。そうですね、皆さん。皆さん、ここ一応合点して下さいよ。それを分からにゃいけん、今日のいわゆる、金光教ということにならんのです。そこを頂かんとですね、いわゆる願いに徹せよということになってこないのです。ね。
ですから、今日、今、その願いの半分を野口っちゃんの話から(しんといた?)というのは、どこまでも、言うならば天真爛漫なというところなんです。だから、これからの半分というのはです、いわゆる地真水心だと思います。ね、地の真、水の心。ね。だから、ここんところをまた哲学していかにゃいかん。ね、地の真、私共が真、真と言うて、金光様のご信心は、特にその真ということを乱発するくらいに使いますね。んなら真とは何ぞやと、いうことになるとなかなか、正確なことが出らないくらいです、けれどもね、大地の心を心とするということがそのまま真なのだと。天真、天の真なのだと、ね。
言うならば受けて受けて受けぬく心なのだ。ね、いわゆる、それはここでは、成り行きを尊ばしてもらうとか、大事にするとかと、ね、それこそ黙って合掌して受けていこうという、それが真なのだと。神様が私一人一人に求めて下さる、ね、求めて下さる、その求めに応じて、はいと受け給わった姿が、私は天真だと、天の真。ね。
昨日の晩、福岡の共励会の晩に、私の子供達から修行生の方、全部、私の部屋に、ちょうど、皆さん帰って来るのを待ちたいと思いましたから、冷たい物でも頂きながら、いろいろ信心の四方山話をしてもろうた。私、とりわけ、あの、三男の息子である幹三郎に話すんです。ね、今、高校2年生ですか、えー。今年に入って、まあ神様にお願い、お取次ぎをして、お願いをしておることは、「毎朝、朝の御祈念に出させて頂きます」ということであった。
自分もやはり、大変な修行らしい、あのご覧のように顔がこんなに腫れてます、ね。かちかちしてます。骨のごとある。まあ皆さんがいろいろと心配して下さる。けれどもね、幹ちゃん、若い時にしっかり修行をしておきなさいよ、ね、後から年をとってからとても楽なぞと。だからせっかく神様がこうやって与えて下さったんだからね、これをね、それこそ、まあ言うならちっとでん早よう良うなれてんなんて気持ちになりなさんな。もう半年よりも一年、一年よりも二年。やはり、修行さしていって、だからそれを修行として受けていける。
いわゆる、ね、自分が求めてこげん顔が腫れたとじゃない、いわゆる神様が幹三郎に求めてござる、言うなら修行なんだから、それをまともから、受けてたたせてもらう、これを修行と受けさしてもらうという気持ちで、もう有り難い、それを修行として受けていけよと言うてまあ話したことでした。ね。
私は、その天真というのはそういうことだと思う。そういう受け心が真なのだと。ね、神様が私に求めてござる、これが修行なのだと、素直に頂いてそれを合掌して受けていくという心が真なのだと。ね。
昨日、私、お取次ぎさして頂いた方に、もう修行さしてもらんなんと思いますと、お日参りもさして頂きたいと思いよりますと、どうも何日か続きよるも崩れてしまいますと。というて、その、おー、まあ本当にやっぱ修行がしたいと思うちゃござる。わけなんですね、ちょっとそれをほんなこつねっちゅうて、お取次ぎをさして頂いておりましたら、頂くことがね、あの、ぼんぼりですね、御神前の御神灯なんかにも使います。ね、あのこう、ぼんぼりという、ありましょう、御神灯型の、八画六角なったね、あの、ぼんぼりの御神灯を頂くんですね。
上は紙でこう貼ってありましょうが、ね、ところがね、その中にね、ろうそくが立っていない。言うなら、芯が立っていないんです、だから芯が立ってないからね、このぼんぼりの、いわゆるこう、あれ風が吹いても消えんように、こうするだけですよね。それをいわゆる神様が立てられんという御理解でした。氏子が修行せにゃ修行せにゃっち言うばっかりで、口ばっかりだと。
試みちと思うとるばってん、いわゆる一心発起になっていないということなんだ。本気でね、一心発起になるということは、それに芯を立てる、ろうそくを立てる。立てたらね、火が灯る、それに神様がその火を消やさんように、いわゆるぼんぼりを付けて下さるという、そういうお知らせであった。
ですからね、一心発起したらできんことはないとですよ、ね、只、漠然と修行せにゃということじゃだめだと。ね、一心発起しますとね、そこに神の働きがある。これはもう何十年も前でしたけれど、「骨は氏子が削れ、紙は神が織る」というような御理解を頂いたことがあります。末広、扇子のことなんですよ。ね、「骨は氏子が削れ」と仰る。だから私共は骨折るというかね、修行は私共がせにゃいかん。それこそ、骨を削るような修行をさしてもらわにゃいかん。そこに神様が「紙は神が織る」とこう言う。いわゆる神様と氏子とがひとつになってです、いわゆるあいよかけよで末広のおかげが頂けてくるんだ、末広の徳が受けらるんだということなんです。
それに私共が削らなければならんのは、私共なんだ。ね、まあそういう意味なんですよ。そこでです。ね、今日は私が頂くこの62節からと、いわゆる金光教というその一字一字の字からです、私共はまあ、有り難いことに教えはこのようにして徹底して頂いておる。本当に噛んで含めるようにして頂いておる。そこで、その言わば、あー、頂いておるその教えですね、教えをね、光にしていかなければならない、いわゆる金光教の光ですね。ね、金という字は、金という字は私は今日はおかげとこう言う、ね。
それを金という字にしていかなければならない、光という字にしていかなければならない、そういうおかげを頂いて初めてです、ね、「わが身におかげを受けて」ということに、私はなるのじゃないかとこう思うのです。ね。なるほど松栄会の方達が言うておりますようにです、ね、合楽には確かに、「あの人の信心を見習え、あの人の信心に続け」と言うほどしの、言うならころっとした信心がないと。
なんとうなしに、皆さん良い信心をしておるけれどもです、言うならこの3つが足ろうたおかげを受けていないということなんです。ね、そこで、松栄会の方達が、んならこの松栄会の会員の中からです、ね、ひとつ本気で信心させて頂いて、ね、人の手本になるほどしのおかげを頂こうじゃないかっちから、受けようじゃないかという話し合いが、昨日あっておりました。
私は、だんだんお話を聞き、また、進めさして頂いて、最後に申しました。皆さんがね、信心というものをどう、名々頂いておるかと、一人一人聞きました。ね。ところがね、どの人の話を聞きましてもですね、もう自分はね信心がなからなければ、成功はできない。信心がなからなければ自分は立ち行かないというところまでは、極めておるということを聞いて私は本当に有り難いと思いました。ね。
例えば、原の「しょういちろう?」さんなんかが、言うておることはどういうことかというと、僕はおそらく信心をなくしたら、僕は即刻、命をとられるだろうと思うとりますよ。ない命を頂いたことを本当に考えて、だから僕にもう信心をぬくということはできないんだと。「とおる?」君は言うておりますよ。本当に時々はね、信心をもうやめたらどんなに楽じゃろうかと思うことがあるけれどもです、けれどもどんなにしても信心を放すことのできないまでに、信心がもう自分と一体になっておることを感じ、いわゆる命と一緒になっておるということを感じます。ね。
もう、もう僕から信心を切り離すことはできん、いわゆる信心はもう命というところまでいっておるということを聞かして頂いてね、もう私、皆に申しました。そこんところまでが分かっとんならね、もうほうからかしとったっちゃ、良か信心ができるよと私は申しました。ね。私は信心によらなければ、成功できないんだ。信心によらなければ幸せにはなれないんだというほどしに、もう信心を切り離すことのできないものになってるんですから、ことに接するというか、何かがあるたんびにです、これは自分の信心がまだ足りんから、もっと良い信心、有り難い信心を身につけなければならんというという姿勢は自ずとできてくるはずなんです。ね。
けれども、自分は信心を抜きにしたっちゃ大抵のことはできると、いうように、只、神様は時々お手伝いをしてもらうぐらいな程度の信心者も随分多いことでしょう。けれども、もう信心が命になっておるということをね、皆さんの1人1人から、表現は1人1人違いますけれども、聞かせて頂いて、なるほどさすがに松栄会だなあと。ある一員の人に申しました。大きな、言うなら障害をさして頂いて、中心にならなきゃならないものが、こげん合楽にばっかり良かつかと、私が思うようなことがあるっち。ね。
言うならば松栄会に、が発会する時に頂いた御理解がね、とにかく飛行機の上からね、落下したまま、大体飛び降りるぐらいな精神がなからなければ松栄会の会員とは言えない。また、松栄会には入会できない。こと神様のことというたら、何を、言わば掘ってでも、神様の方へ飛び込んで来れるくらいな、あー、ひとつの勇猛心とでも言おうかね、そういう、その決断の心がなからなければ松栄会の会員とは言えないといったようなことが松栄会の、おー、まあひとつの心情になってるくらい。
そこで、私、昨日申しました。だから、皆さんはね、この頃それが、こう楽にできるようになった。飛行機から、落下さのだいで飛び降りる稽古ができてです、もうそれこそ、ちょっと合楽でなにかって言うたら、商売の方をぽっと放りよってからやって来るぐらいなことができるようになった。ところがですね、もう、もう飛び降りりゃあ、開くということもうをできて、自身ができてきたわけなんです。だから来んでよか時でんちゃんと来てしまうというような、結果になってきよるじゃないか。
だからもうひとつ、これは松栄会にとっちゃ、新たな心情をね、えー、つかなきゃいけんのじゃないかなと、と言うて、まあお話しながら有難いことだなと思いました。まあこの点、私は合楽の全部の人達ですね、こういうところの信心をひとつ身につけなきゃ、はあ、今日はお盆の十三日でございますけん、十三日会だばってん、ご無礼いたしましたなんていうことはないっちゅうことなんだ。ね。
だから、そういう生き方でいきゃあですね、家のことは神様が見てくださるというところまでは、なら松栄会の方達は、もう、言うならある意味で確信付けておる。ね。だから、それからがです、んならあなた、それだけが信心じゃない。いわゆる、教えを受けるということが有難いなら、それを光にしていく、おかげにしていくというためにはです、それが日常生活の中に、教えが本当に染み込んでいかなければできることじゃないということをです、松栄会の方達が自覚しなければならないように、合楽の信奉者の全部がそうなんだ。ね。
まあ大別して言うと、合楽ではその、教えを徹底して受けておるということは、確かにだろうけれども、まだ、光を受けていない、おかげ、いわゆる金、金の字を頂いていない。その金光教というこの3つが足ろうて頂けれる、ひとつ信心をね、これから目指さなければいけない。そして、言うならば、ね、言わんでもです、金光様のご信心をすりゃこのようなおかげを受けられるというものを示して、ね、人へ伝えていくということ、信心もなるほど、最後にあてましょうかね、「信心も手習いも同じこと、一段一段進んでいくのじゃ」と仰るように、その一段一段、私は教えを頂くことの、言わば御理解力というかね、耳が肥えてきたなら、心も肥えてこなければならない。ね。
心も豊かになっていかなければならない、その豊かな心に豊かな受けものに、ね、金の字が、おかげが、尽きることのないおかげが頂けれるおかげ、そういうおかげをどうでもひとつ皆さんがね、えー、頂いて頂かなければならないと。というふうに思うです、ね。今日の62節は、あー、言わば金光教という、ね、「金」の字、「光」の字、いわゆる「教え」の字というものをもう一遍ですね、私は皆さんがよく玩味して、金光教の言わば信心とはこういう信心でこういうおかげを受けられるんだというところまで、極めて頂きたいと思います。どうぞ。